自己紹介

香月りか

誰かからの評価のためじゃなく、私のために”頑張りたい”あなたのライフコーチ

     1982年石川生まれ。会社員の父、保険外交員の母のもと、授かり婚で3人兄弟長女として生まれる。透析通いの父方の祖母、祖父、父の妹、弟の9人家族。全ての家事は母の仕事で、深夜1時まで台所で作業、部屋で背中を丸めてうずくまる母を見て「私を授かったせいだ」と考え、私は迷惑をかけないように頑張るべきと考える。

     高校は学区1の進学校へ。高1の時、妹がいじめのストレスで胃潰瘍で入院、不登校となる。妹と母が一緒にカウンセリングに通う姿を見て、自分の事しか考えていない自分に罪悪感を抱く。役に立つ存在にならなければと看護師を目指し、大学へ進学。実習でお産に立ち会い、全員が感涙して喜ぶ場面を見て、助産師の道へ。

     その後、結婚・出産。3児の母となる。共働きで夫も深夜残業続きとなりワンオペ育児。時間に追われ「1日が始まるのが怖い」と眠れず、不眠症と診断を受け休職。頑張れないのは、自分の心が弱いからと自分を責める日々。人生に絶望する中、ライフコーチングに出会う。「自分がダメだから頑張る」のはなく「私には価値があるからこそ、私のために頑張るべき」と考えが180度変化。自分のやりたいことに素直にチャレンジする。

     その後、結婚・出産。3児の母となる。共働きで夫も深夜残業続きとなりワンオペ育児。時間に追われ「1日が始まるのが怖い」と眠れず、不眠症と診断を受け休職。頑張れないのは、自分の心が弱いからと自分を責める日々。人生に絶望する中、ライフコーチングに出会う。「自分がダメだから頑張る」のはなく「私には価値があるからこそ、私のために頑張るべき」と考えが180度変化。自分のやりたいことに素直にチャレンジする。

    コーチ香月の自分史

    幼少期

    お母さんの役に立ちたい

    1982年石川県七尾市生まれ。寡黙で亭主関白な建設系会社員の父、保険外交員の母のもと授かり婚で長女として生まれた。
    2歳下に妹、4歳下に弟がいる。2階建ての一軒家に、父方の祖父母と父の妹弟の9人で暮らしだった。

    父方の祖母は週3透析に通っていて、透析から帰ると横になって「外孫は育ちがいいけど内孫のあんたたちは、行儀が悪い」と私たちの批判をすることがあった。祖父はというと、長距離トラック運転手で週末しか帰ってこない自由奔放な人だった。

    父方祖母が家族のお金の管理をしていて、両親の給料は父のお小遣い以外を渡さなければならないルールだったそうで両親はお金を自由に使うことができなかったらしい。生活費も買い物に行く前に祖母に請求しなければならなず「お母さん言いたくないから、ばあちゃんにお金ちょうだいって言ってきて」と母に言われて、気まずい思いをしながらも母の役に立てるならと、祖母にお金をもらいに行っていた記憶がある。

    全ての家事は母の仕事で、みんなが寝静まった後に、背中を丸めて内職をしていたり、0時を回っても台所の片付けを毎日行っていた。
    私は、そんな母を見て「私が生まれたせいで、お母さんはこんな大変な家に嫁いだんだ。お母さんはかわいそう」と思っていたことを覚えている。

    幼少期の私は、喋りが得意だったらしく”しっかり者のりかちゃん”と評価されることが多かったみたいで、保育園の劇で主役に抜擢されたらしい。練習では完璧に演技ができていたのだが、発表会当日は緊張のあまり一言も話せず固まってしまったらしく、怖がりで初めてのことが苦手な自分っぽいなと思う(笑)

    打ち解けたら、とことん親しくなるのは小さい頃からのようで、隣近所のおじさん、おばさんと仲良くなり、ひとりで近所のお家に泊まりにまで行っていたそうだ。

    小学生時代

    小学生時代は、成績が優秀で「りかは勉強できるよね」と優等生として扱われていた。

    小学生1年生のある日、一緒に登校していたAちゃんから急に「もう一緒にりかちゃんとは学校行けない。お母さんがそう言いなさいって」と言われた。母にそのこと話すと「お母さんのせいだね、りかは悪くない」と悲しそうな顔で言われたことを覚えている。後で知るのだが、母とAちゃんのお母さんは仲が良かったらしいのだが、母がBちゃんのお母さんと急激に仲良くなったことが原因だった。Aちゃんのお母さんは、そのことに嫉妬したようで、ある意味その腹いせに私とAちゃんが一緒に登校しないように進言したようだった。

    この事件の時に、母のとても悲しそうな顔を見て「また私のせいで母が悲しんでいる」と悲しくなり、母を悲しませないようにしなきゃ!と思いが強くなっていった記憶がある。

    小学3,4年の頃、祖父の甥っ子が深刻な様子で自宅に来て話し合いが行われていた。私もその部屋へ行こうとすると母から「大人の話だから違う部屋に行っていなさい」と小声で強めの圧で追い出された。
    聞くところによると、祖父の甥っ子が事業で失敗し、祖父が1000万円ほど借金を肩代わりしたそうだ。

    共働きだったのに、母がお金がないとよく言っていて、夜も内職をして頑張っていたのはそういうことだったのかと高校生の時に知った。
    さらに、母方の祖父も4000万円ほどの事業での借金があったらしく、母が私たちに「手に職をつけなさい」と口すっぱく言い続けていたのも、うなずけるなと今は思う。

    生まれてはいけなかったのかも

    小学生の高学年に入った頃、とあるドラマをみていて、”普通は結婚して数年で子供が産まれるのに、私の母は結婚と出産が同時である”ということに気づいた。
    私は、母に「お母さんが結婚したのと、私が生まれたのって同じ年なのは、出来ちゃった結婚ってこと?」と質問した。すると母からはしばらくの沈黙の後「うん」ときまずそうな返事が返ってきた。

    私はその時、母の反応から聞いてはいけなかったような気がしたし、授かり婚は隠しておきたい後ろめたいようなことなんだと子供ながらに感じた。やはり私は生まれていはいけなかったのかもしれないという思考がよぎった。

    小学校高学年になってからの記憶は、テストで100点を取って母に見せた時の母の笑顔だ。「すごいね」と本当に大喜びをしてくれていた。
    学校での出来事を母にいつも話していたのだが、いつもなら母は家事をする手を止めることなく話を聞いていた。なので、母の背中に向かって私は話をしていたのだが、この時は私の方を振り返って褒めてくれた。その経験をして、勉強を頑張れば母が喜んでくれると思うようになり、勉学に励むようになった。

    だから家事の手伝いは妹の仕事になっていって「りかはいつもお願いしても、手伝ってくれない」と母と妹に言われていた。今思えば、妹の方が率先して家事をしていたから勉強をして母を喜ばせようと思っていた部分と家事はめんどくさくてやりたくないし、妹が褒められていたからそれでいいやという考えがあったなと思う。

    中学生時代

    優等生でいたかった

    中学生も小学校の延長で優等生のりかに価値を覚えるようになっていた。

    毎朝、友人3人と自転車で登校していたのだが、友達の1人が集合に遅れて来た。
    小学生の時Aちゃんと一緒に登校できなくなった苦い思いでもあり、その友人を待つことにした。その結果3人で学校へ遅刻。全員で玄関前のホールに正座をさせられて、先生に遅刻するなと怒られた。

    心の中では「私のせいじゃないのに、友達のせいで遅刻した」そう思いながら耐えていると、遅刻した当の本人はへらへら笑っていて「遅刻したくせになんで笑っていられるんだろう」とすごく腹が立ったのを覚えている。今思えば、その友人は自由人で自分の意見がいつもあったし、人の評価を全く気にしていなかったと思う。私は逆に人にどう評価されるかが重要で、その評価を友人に下げられたくらいに思っていたなぁ。

    勉強ができない不安

    中学校2年生までは、テストの成績は240人中、10番前後くらいで、学年上位だった。
    3年生になり、高校受験が近づいてくる頃テストの点数がガクンと下がった。勉強時間は変わっていなかったけれど、授業が急に難しく感じてついていけてない感を覚えるようになった。

    学区1番の進学校へ行くことに憧れていたから、このままだとその高校にはいけないかもと不安になっていった。ちょうどその頃、友人が塾に通い始めてメキメキと成績が上がっているのを知って私も塾に行きたいと母にリクエストした。
    母は「りかが本当に行きたいなら大変だけど出すよ」と言ってくれて塾代を出してくれた。

    今思うと、もちろんその高校への憧れもあったけど、しっかりもので勉強できる私という評価を失いたくなくて必死だったなと思う。ただの自分には価値がないからこそ、そういった誰かの評価を失うことは怖くてたまらなかった。

    塾に通ったおかげで、成績は上がって、希望通りの高校へ合格した。
    母も高校生の時、行きたい高校があったらしいのだが、家庭の事情で憧れの高校へ行くことを諦めた過去があった。「私は憧れの高校へ行くことができる!」母の夢も叶えたようで嬉しかった覚えがある。

    高校生時代

    妹の入院経験

    学区1番の進学校に入学したことで、周囲の大人からもすごいねと褒められることが多くなった。
    「勉強ができるから評価してもらえる」勉強ができる私には価値がある、という誰かの評価で自分の価値を測る癖がさらに強化されていった。

    高校1年の時、妹が学校でいじめを受け、胃潰瘍になり入院する。
    母は仕事と家事をこなし、毎晩妹の病室に泊まりに行っていた。仕事と家事をこなし、妹の病院に向かうとき、母が今まで見たことないくらいの大きなため息をついていた。母は本当に疲れているように見えて、母の役に立ちたいと1度だけ妹に付き添って病院に泊まった。

    その時に妹に関わっていた看護師さんの姿を見て、私も誰かの役に立てるようになりたいと思いを持つようになった。母が「手に職を付けなさい」と言っていた記憶が蘇って、なんとなく小さい頃からいいなと思っていた看護師の道に進もうとこの日に決意した。

    人生で初めての挫折

    学業面では、中学までは勉強を頑張ればテストでいい点数を取れていたけれど、徐々に勉強が難しくなって学年順位も下がっていった。塾に通おうと思ったこともあった。
    ただ、通える塾が理系の優秀な人しかいなくて、理系科目が苦手で自分は理系の人よりできないという劣等感から、塾に行くことを避けた。

    理系の人と比べないことで、勉強が出来ない自分を見なくていい環境を作ろうとしたんだと思うし、勉強ができなくなっていっている事実を見てしまうと、自分の価値が無くなって行くことが怖くてせめてもの抵抗だったのだと思う。

    結果、センター試験で失敗、国公立大学の前期後期試験で不合格。
    人生初めての挫折を経験した。後期試験の合格発表のときは、母と一緒に見に行ったのだが、ショックで涙が出そうになったものの、母に見られては母を悲しませてしまうと思い、母に見つからないように泣いた。今思えば、勉強を頑張れなかった自分は弱いと無意識で自分をせめていたなぁ。

    浪人時代

    国立大学の受験に失敗した後、親からは「私立大学には行かせられないから専門か短大に進みなさい」と言われたけれど、専門学校や短大に行く気のなかった私は親の勧めを拒否した。
    勉強ができることが私の価値だと思っていたから、専門学校や短大の道は嫌だと考えていたのだ。

    母からは、「お父さんに予備校に行かせてくださいと、りかがお願いして」と言われた。父にお願いしようかと思うものの、大学受験に失敗したことで自分の不甲斐なさを感じて落胆していたのでどうしてもそれができなかった。
    だから、父に向かって「予備校に行かせてもらいます!」と吐き捨てて立ち去ったらしい。(母談、私はそのことは覚えていない)

    長女でしっかりもので勉強ができる私というアイデンティティーを壊したくなかったから、どうしても父に頭を下げるという態度は取れなかった。頭を下げてお願いしてしまうと、価値がない私を認めなければならなかったし、私が親に迷惑を掛けているということをどうしても認識させられてしまうからだ。

    結果、父は何も言わず予備校のお金を出してくれて、河合塾に通うことになった。

    嫌われないように

    予備校生活は、叔母の家に下宿することにした。この下宿は、本当に辛くてたまらなかった。理由は、叔母との折り合いがつかなかったからだ。
    例えば、叔母にお米を研ぐように言われたことがあり、前述したように私は家事を全くやってこなかったので、お米の研ぎ方がわからない。

    叔母からは「お米も研げないの?お姉ちゃんは、子供にこんなことも教えてないなんてありえない」と責めるようなエネルギーと母を馬鹿にしている感が伝わって、居心地が悪かったし、母に申し訳なく思った。私も叔母に嫌われないようにと本当は自分が勉強したいのに、いとこの勉強の面倒を見て頑張ってみた。

    しかし、叔母との折り合いはつかず、イライラした叔母がいとこたちを置いて家出したこともあって、いとこ達から「お前のせいだ出ていけ!」と言われる日もあった。最後には、私も我慢の限界に達し、半年後に実家に戻ったのだった。

    結局、予備校には往復3時間掛けて通うことになったけど安心して過ごせるようになった。センター試験が近づくと「また失敗したらどうしよう」と不安にもなったけれど、もうやるしかないと気持ちを切り替えることができた。いざとなった時の覚悟の決め方は我ながらいい感じ(笑)だと思う。

    結果はセンター試験で、点数は9割超えで志望していた千葉大学には合格できそうな十分な点数が取れた。しかし、母と話して関東へ行くのは金銭面的な不安もあることがわかった。「浪人もさせてもらったし、もう迷惑をかけられない」と考え、地元の金沢大学を受験し合格。進学することにした。

    大学生時代

    大学に入って新しい友人が7人程できた。友人たちは自分の意見を持っていて、みんなの意見をテキパキとまとめるリーダーシップを持っている人が多かった。

    しっかりしている友人に囲まれて、正直ラッキーだなと思ったし「もうしっかりじゃなくてもいいんだ、友達に頼ってもいいんだ」と思ったことがとても印象に残っている。
    私がしっかりしなきゃと無意識で長年過ごしてきていた自分に気づいた。さらに、その考えが自分を窮屈にしていたんだとハッとした。

    誰かの評価のためだけに生きなくてもいいのかも?自分のままでいいのかも?と初めて頭をよぎった経験だったのかもしれない。

    助産師になりたい

    大学3年生のとき、産科の実習でお産に立ち会った。女性の体からもう一つの命が生まれてくる瞬間を目にして、人間の生命の神秘に触れて感動したし、医療スタッフや両親の温かい雰囲気を見て、こんなに温かい雰囲気の中で子供って生まれてくるんだと涙が出た記憶がある。

    今思うと、「自分は生まれてきても良かったのかな?」という自分の命への疑問があったからこそ、私もこうやって生まれてきたのかもしれないと思えて嬉しかったのだと思う。

    大学時代はテニス部に所属していた。テニス部は、練習参加必須(THE体育会系)の部活だったので、実習期間中も実習のあと部活に参加していた。実習の緊張感と膨大な課題と部活の両立で、”次の1日が始まるのが怖いけど、寝るしかないから寝る”という深夜2時〜3時に無理やり眠る日々だった。

    助産師になりたいと思ってはいたけど、ついていけるか不安で、その道に進むことをずっと迷っていた。助産師になるには、一般の学生がやる看護師、保健師の授業に加えて、選考試験や更なる実習が必要だったからだ。でも、あとで後悔はしたくないという思いで助産師の道に進むことを決めた。助産師になることで、出来る人と思われたい自分もいたと思う。
    実際、助産師になるのは大変でお正月も返上で実習や勉強も頑張った記憶がある。

    その甲斐あって、無事に看護師・保健師・助産師の3つの資格を取得することができた。

    社会人

    就職は東京の大学病院に就職。田舎の独特な閉塞感から地元を離れたい、東京で最先端の場で助産師として働いてみたいと思ったからだ。

    この時が初めて反対する親を説得して自分の行きたい道を選んだ。両親は上京には反対で「心配だから石川に残ってほしい、長女なんだから」と何度も私を説得した。だが、このままだと私は一生、地元石川で生きて行くことになる、今しかないと思い、両親の反対を押し切り、勇気を出して上京したのを覚えている。

    今思うと、東京の大学病院を選んだのも、他人から「すごい」と言われる自分にならなきゃと思っていたことが大きかったし、地元を離れて東京に出ることで、今までとは違った自分になることを期待していたのかもしれない。

    母への親孝行

    大学病院では希望した、産科・MFICU配属となり、充実した1人暮らしの社会人を謳歌していた。仕事終わりに毎日のように友人と飲みに出かけたり、都会の雰囲気にワクワクしたり、毎日がキラキラと楽しさで溢れていた。頑張ってきたことが身を結び、自分の夢を叶えられて嬉しかった。
    さらに、手に職も付けることができて、母の希望通りの人生を歩んでいる私は、母への親孝行をしている。そんな自分が誇らしいと思っていた。

    ただ、助産師が60人程いる大きな病棟だったため、埋もれないように助産師として自分の強みをつけないといけないと思った。色々な研修に参加して、この分野では誰かの役に立ち、認められる自分になりたかった。

    助産師としては100人以上の赤ちゃんを取り上げさせてもらったり、何千人の方の助産師外来も行ってきて、大変だけどやりがいがあった。この助産師という職業を選んで本当に良かったと思う。学生の看護実習や新人教育の担当もした。学生や新人の助産師が座学で学んできた知識を実際の現場で活かして、誰かの役に立ったり、成長したりする姿を見るのは私の喜びであり、働くモチベーションだった。

    結婚、出産、母となる

    授かり婚が恥ずかしい

    30歳飲み会で出会った旦那とスピード婚をした。出会った時から、声を聞いてきっとこの人と結婚するんだろうなと思っていた。出会って半年で結局授かり婚をすることになった。私は授かり婚で生まれた子供で、そのことに悩んだこともあったからこそ、自分は絶対に授かり婚はしないと決めていた。

    だから妊娠が分かった時は戸惑ったし、生まれてくる子供もいつか私と同じように「自分を授かったせいで、母の人生を苦しめた」と思うのでは、と思うと不安だった。

    それに加えて、助産師なのに結婚前に妊娠したことを恥ずかしいと思った。同僚から、「助産師のくせに、自分の事も管理できないのか」と思われそうで怖かった。せめて、出産は助産師として恥ずかしくないように安産にしなきゃと思っていて、安産のためには自分の体重が増えすぎてはいけないと無意識に食事量を減らすようになっていた。

    出産1ヶ月前の妊婦健診で、子供の体重は標準より少なく低出生体重児として生まれるかもしれないとわかった。子供が小さいのは「私が無理に食事制限をしたからかも」と自分を責めるようになる。子供のことよりも、人にどう思われるか、そんなことばかりが気になっていた自分が許せなかった。

    実際、生まれた子供は低出生体重児だったが、健康で五体満足で生まれてくれた。「これで馬鹿にされずに済む」母になった感覚より、助産師としてお産をうまくやり遂げたことにホッとしたという方が大きかった。

    一方で、お産に立ち会った夫が感動して子供を愛おしそうに眼差しを向けているのを見て、”私自身も父に誕生を喜んでもらっていたのかもなぁ”となんとなく思った。さらに、我が子を抱っこした時には今まで感じたことのない愛おしい感覚、温かい気持ちを感じた。”母も私を産んだとき、こんな感じだったのかな”子供が生まれたことで、自分は生まれてきてはいけなかったという感覚が少し和らいだ気がしたし、ずっと愛があったような気がして嬉しくて涙が出た。

    育児での葛藤

    小さく産んだことへの罪悪感

    低出生体重児で生まれた我が子には、発達障害のリスクがあった。それを恐れて、生後半年くらいから早期教育の幼児教室に通わせた。
    成長がゆっくりな子供の様子を見て、はじめは成長の段階も個人差があるからな、と自分を納得させようとしていた。

    だけど、子供が保育園に通いだしてからは特に、周りの子と比べるようになった。成長がゆっくりな我が子を受け止めようと思ったが、なかなか受け止めることが出来なかった。保育園の先生からも発達診断を受けてくださいと言われたりもして「やっぱりか・・・」と小さく産んでしまった私のせいだと自分を責めた。

    同時に、子供にダメ出しをして指摘するようにもなった。
    「何で早くできないの?」「何でみんなと同じようにできないの?」
    そんな言葉をかけてしまって、さらに自己嫌悪に陥っていた。でも、罪悪感に潰されそうで、子供に当たらずには自分が保てなかったのだろうと思う。

    仕事は時短で助産師の仕事を続けていた。仕事から帰るのは18時。そこから、得意ではない料理を作って、子供に食べさせて、お風呂に入れて、寝かしつけをする。夫は残業続きで、深夜23時〜0時超えでワンオペ状態だったため、育児家事は一人で頑張っていた。苦しかったけれど、”イライラしてしまう私の姿”を夫には絶対知られたくないと思っていたから、相談出来ずに自分の中で抱え込んでいた。

    生き方を見つめる

    そんな時、義父がある日突然、余命半年と診断される。もう地元で治療がないとなった時、私の勤めていた大学病院の治験を受けるために義父が上京し、義両親と同居することになった。周りの友人からは「大変だね、私にはそんなことできないわ」と言われたけれど、私にとって義父が大切だったし、義父を思う夫の気持ちを大切にしたいと思っていた。

    結果としては、治験の効果は得られずに笑顔で東京駅で見送ったのを最後に、義父と直接話をすることは出来なかった。義父の諦めずに生きようとする姿を目の当たりにして、私はこのままの生き方でいいのか?と疑問に思ったし、命はいつ終わるかわからないと危機感を持った。

    私は胸を張って”自分の人生を生きた”と言えるだろうか?と自分に問いが湧いた。
    今の自分の人生では、そんなことは言えないと思ったけれど、どう生き方を変えていけばいいのか?見当もつかなかった。

    理想の母親像とのギャップ

    長男を出産して4年後、2人目の子供ができた。出産後、第一子である長男が可愛いと思えないようになり、長男に対して怒ることがさらに増えた。

    「いい加減にして!」「だからみんなに置いてかれるの!」
    こんなに怒ってしまう私には愛情がないのだと思った。理想の母親像とはかけ離れた姿に、自己否定を繰り返していた。自分の中から湧いてくる怒りという感情をコントロールできないこと、どうしたらいいのか出口が無いような感覚だった。

    今思うと、長男の周りのことを気にせず自由に振る舞う姿が羨ましくて、腹が立ったのだ。自分自身はこれまで他人の評価のために我慢して生きてきた自分の葛藤をぶつけてしまっていた。

    2人目出産後、産科からNICUに配属となった。さらには、復帰とともに3人目妊娠が分かって、すごく後ろめたい気持ちになった。3人目の出産を望んでいたにも関わらず、職場に迷惑が掛かると思ったし、復帰とともに妊娠しているなんて常識外れで、他のスタッフにどう思われているのか?不安で仕方なかった。

    不眠症になる

    夫の残業、深夜帰りは続いていて、妊婦の体で2人の育児と家事、新しい仕事に心理的にも体力的にも限界を感じていた。だけど、誰にも弱音を吐けない。辛いと思ってしまうのは「私の頑張りが足りないせいだ、私の心が弱いからで負けない強い心になりたい」と思っていた。

    頑張れない自分に不甲斐なさを感じた。私は何のためにこんなに一生懸命日々を過ごしているのだろう。子供にも優しくしたいのにできない。大切にしたい人を大切に出来ない自分は、心のない冷たい人間のような気がして自分が許せなかった。

    そんな日々を5ヶ月ほど続けたある日、「忙しい1日が始まる朝が来るのが怖い」と胸が締め付けられるように息苦しさを感じ、寝付けなくなった。明け方5時〜6時の1時間ウトウトするくらいしか眠れなくなった。疲労がたまっていることで、お腹も張るようになった。このまま頑張ると切迫早産になるかもしれない、お腹の子に迷惑が掛かると思うと、もうリスクを背負ってまで頑張れないと思った。

    妊婦健診で現状について話すと「不眠症」と診断され、臨床心理士に「頑張りすぎているから、体がSOSを出していること、もう頑張らなくてもいいこと、誰かに頼ってもいい」と言われた。その時、初めて自分が頑張りすぎていて、心身のバランスを崩していることを知った。

    仕事を休むことは迷惑になることと思っていたし、自分ではもう、何が正しいのか判断できなくなっていて、ここでやっと夫に相談した。夫が「辛いなら、もう休んでもいいんじゃない?」と言ってくれて、とても驚いたことを覚えている。

    夫は「頑張れ」と言うと思っていたから、本当に予想外の返事だった。夫の言葉に許された感じがして、救われた気持ちになった。”頑張れない私には価値が無い”と私が私に言い続けていて、周りの人はそんなこと思っていなかったのかもしれないと今までと違う世界が少し見えた。

    仕事を休職し、そのまま産休に入った。その後も自分を責めることをやめられず、今度は仕事を休んでいる自分を責め続け、突発性難聴になった。先生からは「ストレスが原因です。」と言われた。この時に思ったのは、ただ時間を作って休めば心の状態が良くなるわけではないということだった。自分が考え方を変えなければいけないと思った。

    コーチングとの出会い

    その後、人生を模索していく中で、コーチングというものに出会った。
    たまたま見たFacebook Liveで「人生成功している人って、自分が好きな人なんだよ」と言っている人がいて驚いたからだった。その時は助産師から離脱した自分を責めていて、自分の事が大嫌いだったからだ。

    「自分の事が好きってどういうこと?普通はみんな、自分の事嫌いじゃないの?」とすごく衝撃を受けた。我慢して、頑張って、苦しくて、自分のことが嫌いでも、人からの評価を得られれば幸せになれると思っていたから、真逆の考え方に唖然とした。でも、その人は私と違って、とても自由で幸せでキラキラしていた。

    誰かに評価してもらうように頑張って来たのって、間違っているのかな?と疑問が湧いた。

    そこで、私もそうなりたいという一心でコーチングを受けると決めた。3ヶ月で50万円の自己投資でとてもドキドキした。講座を受けて、人の役に立たないといけない、育児を頑張らないといけない、人にすごいと言われないといけない、迷惑をかけてはいけない など自分の持っている思い込みを知った。

    行動出来ない自分

    そこまでは良かったのだが、その講座は認定講師制度というものがあり、せっかく受講したんだから自分も認定講師にならないとという思考に次は囚われていった。認定講師として、課される課題をやろうとしたけれど、なかなか行動出来ない自分がいた。行動できない自分を責めるようになり、心がついて行かず認定講師を断念した。

    そのあと、「何か講座に参加して、知識をつければ私は幸せになれるのかも」と思うようになった。心理学やカウンセリング、自己啓発の講座など色々な学びを繰り返した。自己投資した金額は、300万円ほど。その時は気づいていなかったけれど、誰かに変えてもらおう、講座に行きさえすればなんとか私は幸せになれると思っていたと思う。結局は、講座を受けても身になることはなく、セミナージプシーとなっていた。

    セミナージプシーからの脱却、サイナスリズムコーチングとの出会い

    「こんなにお金も出して、講座に通い、学んでいるのに、どうして私の人生変わらないのだろう」
    「私はもう変われないのかもしれない」と思って絶望していた。そんな時に出会ったのが、サイナスリズムコーチングだった。

    当時、セルフコーチング大学というコーチングのオンラインサロンがあることを知った。以前コーチングを受けてうまくいかなかった私は、コーチングを受けるのが怖かった。だけど、代表の石原のブログでの発信を見ていくうちに私へのヒントが何かあるかもしれないと思い、オンラインサロンのコーチング付きのプランに申し込んだ。

    緊張したけれど、コーチングを受けて自己対話をしていくことでこれまで、なぜ自分がうまくいかなかったのかに気づいたり、色々学んで知識をつけていたけど、本当に自分と向き合うべきところで逃げていた自分に気づいた。

    例えば、夫のことを”私を否定してくる存在”として何でも夫のせいにしてきた自分、こんな人生になったのは母のせい、育てられ方が悪かったなど、他人のせいにしている自分などがあった。

    自分を許すということ

    特に大きかったのは、誰かの評価でしか、自分を認めないようにしているのは自分自身だったということに気づいたときで、”自分で自分を許せば良かっただけだった”ということに気づいた。こうやって色々なことに気づいて、根底にあった自己否定も徐々に無くなっていき、コーチングを受けるたびに、自分には価値があると思えるようになった。

    我慢して頑張って、価値ある自分になろうとしてきたのに。自然と自分には価値があると思えるようになるなんて驚きでしかなかった。それからというもの、今の自分には何かが足りないから埋めるために頑張らないといけない、我慢して他人の評価を得ないといけないという思い込みから解放された。

    今では、私には十分価値がある、だからこそ、自分のやりたいことをやってみようと自然と自分のために動けるようになった。夫や親しい人にも、我慢して言えなかったことを相手を信頼して言葉にするようになっていき、夫も転職してくれ、二人で育児ができたり、平日にデートに行くこともできるようになり、長年の悩みだったレスも解消した。

    仕事復帰も「また同じ不眠症などになってしまうのかもしれない」と思ってできなかったけれど、まずはやってみようと思えるようになり、復帰できるようになった。東京から福岡へ引っ越し、念願の海の見える戸建ても購入。

    自分には価値がないと思っていたから、価値がない私は何かしなきゃとか、人に認められないとと思っていつも焦っていたけれど、その感覚は無くなって、安心して生きていけるようになったと思う。

    サイナスリズムコーチとして

    現在は、コーチとして独立し、サイナスリズムのコーチとして活動するようになった。クライアントは、やりたい仕事の実現や、自己否定で苦しかった日々から安心して日常を過ごせるようになり、パートナーシップ・職場の人間関係の改善などを叶えている。

    ここまで読み進めていただき、本当にありがとうございます。
    サイナスリズムのコーチングに出会って、敵ばかりだと思っていた世界が、どの視点で見るかによって変わっていきました。コーチングに出会うまでの私は、自分の過去をずっと否定していたような気がします。

    今は、自分の存在を否定していたことも、生きづらさに気がつくまで誰かの評価のために生きてきたことも、すべてが今の自分に繋がっていて、その経験があったからこそ今の私なんだと、自分のことを受け止められるようになりました。ありのままの自分を認めた時、自然と自分がどう在りたいか、心の中心に置いたものを大切に出来るように変化していきました。

    ここまでの話に共感したり、過去の私と同じように「私の人生って、何なんだろう?」「幸せになりたいのに、幸せになんてなれない」「人生変えていきたいな」と思っている方がいらっしゃれば、お声がけください。オリエンテーションでお話出来ることを楽しみにしています。