自己紹介
1991年神奈川県生まれ。2人姉妹長女。“娘は母親の作品”と公言する母。母に従う父の元育つ。母から「言う通りにしないなら縁を切る」と言われ、進路、人間関係、恋愛、家事のやり方など全て従う。
就職後は、給料・カード明細書を毎月チェックされる生活。母の干渉から抜け出すため、海外留学を決意する。血便が続き内科受診。潰瘍性大腸炎の診断。「症状があっても、留学をしている人はいるし、サポートするよ」と担当医の言葉に励まされ、「女が大学院に行く必要はない」と3ヶ月続いた母の反対を押し切り、渡韓。
渡韓後、起床時間や食事を自分で自由に決め、ボランティア活動やアルバイトへ挑戦。自分の人生を自由に選択する楽しさを満喫する一方、「私は母を幸せにしていない」と罪悪感が付きまとう。
罪悪感を払拭したいと模索する中、ライフコーチングに出会う。”親孝行=母の望み通りに生きること”だと思ってきた自分に気付く。本当の親孝行は”自分自身が幸せに生きること”と定義を変え、幼少期からの夢であった海外移住を叶える。
現在、海外移住8年目。ライフコーチとして独立。日本語&韓国語講師としても活動中。好きな場所で好きな人と好きなだけ仕事をする生活を送る。趣味はヨガ、旅行・韓国ドラマ観賞。
コーチ相原の自分史
幼少期(幼少期~幼稚園)
母の作品としての人生の始まり
1991年神奈川県生まれ。母方の祖父母、父、母、妹の6人家族。
幼少期の記憶はほぼないが、両親から聞いた話によると、おてんばで、とにかく手のかかる子供だったそうだ。夜泣きはしょっちゅうで、ドライブに連れて行くとなんとか泣き止むが、家に着くとまた泣き始め、両親は仕方なく、2度目のドライブへ行っていたらしい。
とにかく”自分で動く子”だったそうで、生後9ヵ月ごろには、両親が目を離している隙にハイハイで階段を登ってびっくりしたこともあったそうだ。歩けるようになってデパートに行けば、一人でおもちゃ売り場へ行き、おもちゃを両手に抱えていたらしい。「ここで待っていなさい」という親の言葉はさっぱり忘れていたようだ。
とにかく、自分で行動したがりな幼少期だったらしく、、、「じっとしていなさい」と頻回に注意されていたらしい。一方、他のことにおいては、一度注意されたことは基本的には守っていたそうだ。
3歳の時には、外遊び中にフェンスに顔を思い切りぶつけ、頬から流血。頬を細かく縫う手術をすることになったのだが、全然泣かずに病院の先生がびっくりしたそうだ。ちょっとのことでは動じず、起きたことに冷静に対処できる部分は今も健在だと思う。
こうやって考えると、小さい頃から自分で行動するのが好きで、自分の意思が強く、学習能力やリスクヘッジも自分でやってのけていた。
だから、親が必要以上に手を掛けたり守ったりしなくてもいい子供だったんじゃないかなと、ちょっぴり思っている。
だが、母の性格や初めての子供であることから、母は私を人様に見せても恥ずかしくないように母の考える”正しい娘”に育てるのに必死だった。娘は母親の作品だから、誰もが賞賛する娘に育てなきゃという気持ちがあったのだろうな。
母に大きな声で怒鳴られるたびに「親の言うことを守らなければ」「自分で決めることは悪いこと」という思い込みが強くなっていった。
小学生時代
母の決定が判断基準
小学校に入学してからは、そろばん・ピアノ・習字を母の希望で習い始めた。 放課後は、皆で集まって遊ぶのがスタンダードの地域だった。自分だけその輪を途中で抜けて、習い事に行くことがほとんどだった。
ちょっぴり寂しく思いながらも「親が私のためを思って習わせてくれているのだから、頑張らなきゃ」と自分にハッパをかけていた記憶がある。
この頃の自分には、すでに、母が決めたことをやるべきという基準が出来上がっていた。
「小学校卒業までに珠算検定1級を取ること」
「卒業式のピアノ伴奏に選ばれること」
という難しめの課題を母から言い渡された時も、目標に向かって努力し達成していた。
習い事では、どの教室の先生からも「彩菜ちゃんは優秀」と褒められ、自分でもそれを誇らしく思っていたことを覚えている。
そして、何事もうまくこなせるのは、母が私の成長を願って、色々な習い事に通わせてくれるからだと思っていたし、それは母の純粋な気持ちだから期待に応えたいと思って頑張っていた。
無意識のうちに母親の言いなりに
家の中では、「掃除や洗濯などの家事をやりなさい」「やらないなんてあり得ない」と言われ、母が言った通りに家事ができていないと「すぐさまやれ!」と怒鳴られる日々。学校、習い事を終えて、疲れて帰ってから、妹と分担して洗濯物畳みやお風呂掃除など毎日家事をしていた。
後で気づくのは、母は色々なことを私たちにやるようによく言っていたし、やらせていたと思う。それは私たちの成長を願っていた部分もあったけれど、私たち姉妹を誰からも認められる優秀な娘に育てることで、自分も認められたい気持ちがあったのではないかなということ。私も無意識のうちに母の言いなりになっていたんだなーと思う。
ちなみに、母が海外好きで、年に一回の家族旅行は海外だった。海外への憧れはこの頃からあった。
中学生時代
母の選択が自分の選択
中学校は、市内の一般の中学へ。部活は吹奏楽部。当初フルートを希望していたものの、母に相談すると「楽器を買う必要がないホルンにしなさい」と言われ、ホルンパートを希望することにした。
この頃から”自分の意見を言ったところで無理だろうな”と母に意見を言うのは諦めていた。自分が本当にやりたいことではなく、母が許してくれそうなことを選択するのがデフォルトになってきた中学時代。
中1の9月、母から市内で2番目に偏差値の高い学校の文化祭に連れていかれる。
「この学校に行きなさい」と強制された。ただ、そもそも、その高校は国際交流が盛んで自分が行きたいと思っていた高校だったからセーフ。
高校受験は、母と二人三脚で同じ目標に向かって頑張っていた。「一般入試はお金がかかるから」という理由で母から課せられた課題は、推薦入試での進学。母の望みを叶えたい一心と海外の人との交流を夢見て深夜2時まで勉強することもあった。
3年間頑張った甲斐あって、無事志望校に合格。
また、中1の時に母の勧めで海外でのボランティアへ参加。ミクロネシア諸島のヤップ島でゴミ拾いや植物を植える活動をしたり、現地人の家に訪問したりもした。
高校生時代
やりたいことをできる感覚
高校進学直後に母から「あんたはどうせMARCH以上の大学に行けないから、女子大に行きなさい」「大学受験もお金がかかるから指定校推薦しか認めない、頑張りなさい」とさっそく指令が出る。
高1の最初の中間試験は学年18位。それを見た母は「女子大じゃなくてMARCHレベルの大学に指定校推薦で目指しなさい」と速攻意見を変えてきた。いけると思われたらしい。
大学に進学したい想いは私自身も強く、勉強することは全く苦ではなかったし、むしろ自分で目標を決めて楽しみながら勉強をしていた。
3年間を通して、成績は常に学年1・2位。母は成績を見るたびに大喜び。近所に自慢して回っていたのを覚えている。母が喜んでくれて嬉しい気持ちだった。
運動をしたいなと思っていたのと、母も許可してくれたので、部活はチアリーディング部に入部。誰かと協力して何かを作り上げることの喜びを学んだ。この学びは、今コーチとして活動する中でクライアントと協働してクライアントのより良い人生を作る喜びにもつながっている。
また、国際交流委員会に3年間所属。在校生と外国人が交流できるイベントの企画や運営を担当した。生徒会にも所属して、学校をよりよくする活動に参画した。
これらの委員会活動は、自分がやりたくて参加したこと。母が関与しないところでは、自分で意思を持って自由に決めてやりたいことをやれていた。
高2の時には、イギリスの姉妹校で10日間の研修へ参加。この頃から「将来は海外で暮らしてみたい。海外で働いてみたい」と思い始めていた。韓国語の響きが好きで、学校の韓国語の授業に参加。自分でも文法や発音など積極的に勉強していたと思う。よく勉強した!!!
その頑張りや成績は先生たちからも認められ、高3の受験時に青山学院大学の指定校推薦をもらうことができた。
高校時代は”母の思惑”と”私がやりたいこと”は、ほぼ一致していた。だから特に反抗心や抵抗が湧くこともなく、ちょっと意見を押し付けてくることがあるなと思いつつも、母は私のことを一番に考えてくれる存在だと信じて疑わなかった。
これが崩れていくのが、大学進学後の就職活動のとき・・・
大学生時代
大学時代の生活と就活
青山学院大学に無事進学。学部は経営学部マーケティング学科を選択。
母からの指令は、「MARCHレベルの大学に指定校推薦」のみだったため、大学と学科は自分の意思で選択することができた。関心のある分野を学ぶのは楽しかったので、自然と勉強することになり、定期試験では、たまにクラス1位になることもあった。
大学に入ると母から「学費は出すけど、うちは貧乏だからお小遣いは自分で稼ぎなさい」と言われ、アルバイトを2つ掛け持ちした。
やったアルバイトは、コンビニ店員と温泉施設のスタッフ。 朝6時からコンビニでバイトをし、大学で夕方まで授業を受け、夜6時から10時まで温泉施設でバイト。こんな生活を週に3、4日していた。残りの日々は友人と会ったり、好きなことができた。自由や楽しさを感じていたなーと思う。
長期休暇には、韓国やセブ島へ短期留学。外国へ行くと、違う価値観や文化に触れることで自分の視野や人生が広がっていく感覚で、それがとても好きだった。
そうやって世界が広がっていくと、自然と自分の好きな世界や価値観も確立していっていたのだと思う。
就職活動を始めた時に、母の意見や考えと折り合いがつかなくなっていく。
母は小学生の頃から「客室乗務員になりなさい」と言っていて、最初はそれを聞いて航空関連の会社を中心に就職活動を開始。3社の最終面接まで進んだが、すべて最後に不採用。
友人はもう既に内定をもらって就活を終えている夏休み前に、内定が1つもない状態で私は焦っていた。だけど「卒業までまだ半年以上あるし、どこかには就職できるだろう」そう思って気楽に構えていた。
母との関係に違和感を抱く
ただ、母の考えは違っていて「面接時におまえの普段のその生意気な態度が出ているんだ」「面接官は優秀だから、短い時間でも見破れるんだ」「普段の態度から改めろ」「おまえは家族みんなを心配させているんだから、一刻も早く内定をもらってこい」と、家に帰ると毎日母からこのような言葉が飛んできた。
こんな母の言葉を聞き、母が今まで自分に”こうしなさい”とアドバイスをしていたのは、私の幸せを思ってではなかったとハッとした。母は自分の世間体を心配して、アドバイスや司令を送っていたのだ!
母のエゴを満たすために利用されていたことが分かり、生まれて初めて母を憎いと思った。「私はあんたの操り人形じゃない」母への反抗心も感じたし、母がしきりに言っていた「娘は母親の作品」という言葉も腑に落ちた。
そんな憎しみの中、たまたま書店で『毒になる親』というアメリカのスーザン・フォワードさんが書いた本を見つける。本を買って読み始めると「これ私じゃん」と思うような、自分と同じように過干渉の親の元で育ち、悩んでいる人々の話が書かれていた。
“毒親”という言葉もその本で知った。 本には「毒親から解放されるためには、誰か1人でも良いから精神的に支えてくれる人を見つけ、親と縁を切る覚悟で行動していく必要がある」と書いてあった。
だけど当時の私には、精神的に支えてくれる人どころか、母との関係について相談できる相手もいなかった。
親は大切だし、縁を切りたいわけでもない・・・
これからもこのままの関係を母と続けるのか?
これから先、どうしたら母と良い関係が築けるのだろう?
ひたすら考えても答えが見つからず、ただ絶望しながら悩んでいた。
結局就職に関しては、「一刻も早く内定をもらえ」と、母が探してきた会社のURLが毎日のように送られてきた。鬱陶しくてたまらない。母は私のことを恥ずかしいと思っているのだろうなと切なくなった。
最終的に大学の就職センターにきていた求人の中で、興味がある会社に応募した。就職先からは郵送で合格通知が届いたのだが、その時私は大学にいて不在。
母は「みんなを安心させるために必要だから、代わりに私が開けた」と合格通知を勝手に開け、「これでやっと肩の荷が降りた」と連絡してきたのだった。
その後も「知られていないところに就職するなんて」と母は最初、就職先を不満に思っていたようだっだけれど、福利厚生や給料などの条件が、母が思っていたよりも良かったらしく、何も言わなくなった。どうやら人には自慢していたらしい笑
就職
一般財団法人に就職
就職したのは、一般財団法人の日本のものづくりに関する教育などを行う企業だった。そこでは、医療統計に関する教育事業を担当。教授や企業講師と連携し、セミナーの企画・運営を行った。教育にも興味はあった。
また、スケジュールの管理や講師側との内容の打ち合わせ、顧客対応など、マルチタスクが発生するような業務形態も、性に合っていて、効率よく進めるには?を考えながらゲーム感覚で楽しんでいた。
母から「会社は家から通いなさい」と言われていたので、実家から片道2時間かけて通っていた。
毎朝5時起きで、残業せずに帰っても家に着くのは夜8時くらい。毎日、バタバタしている感覚で日々をこなすのにいっぱいで、母の干渉が煩わしいなと思うことはあっても深く考える暇もなかったと思う。
母の管理下での生活
就職後「おまえはお金の管理ができないから」と母に言われ、通帳とカードは母が持っておくことになった。嫌だったので一度は抵抗したけれど、「親に言えない金の使い方をするのか?」と母から言われ、知られて嫌なことはなかったので、黙って渡しておく方が母は納得するだろうと思い、不満に思いつつもそのまま渡すことにした。
毎月給料日になると銀行から母がお小遣いという形で3万円程度を下ろして渡してくれる形だった。それ以外には、家賃、任意保険、化粧品代(母が指定のものを使わされていた)などの名目でお金を毎月引き落とされていた。選択権は私にはなかった。
クレジットカードの明細書も毎月チェックされ、外食や服、好きで買った小物など母の基準に合わないものを買うと「くだらないものにはお金を使うな」とチェックが入った。
一人旅や外泊も禁止。地元の市役所や消防署勤務の人、もしくは医者と結婚しろと言われ、母が認める相手じゃないと恋愛することも難しい状況。母からの干渉が日に日に苦しくなっていった。
どうにかしてこの状況を脱出したい!!!!!!
そう思った社会人2年目の夏に、たまたま目にしたブログで、奨学金をもらいながら韓国の大学院に通えるプログラムがあることを知った。「これだ!」とピンときた。だけど家族に言うと反対されると思い、内緒で自分一人で書類を準備した。書類は複雑で、揃えるまでに半年もかかった。
病気の発覚
あとは提出するだけ・・・そう思っていた矢先、夜トイレに行くと血便が出た。「え?血?たまたまかな?」と思って3、4日様子を見ていたが止まらない。慌てて病院を受診したところ、潰瘍性大腸炎と診断された。
私が病気?信じられない。健康が取り柄だと思っていたのに。
医師からの説明は、「病状は軽度ではあるが、腸の状態を維持するためには、これから先ずっと薬を飲み続けなければいけない」ということだった。次に浮かんだのは、「このまま血便が止まらなかったら、韓国の留学も諦めないといけないのか?」この息苦しい家から離れられないなんて、絶望しかない。
だけど、初めての土地で体調が悪くなって、ちゃんと生活していけないことも不安。自分的には究極の選択で、書類を出すかどうか?(留学に行くか行かないか)悩む日々が続いた。
大反対を押し切り、韓国へ
薬を飲み始めて2週間経った頃、血便が止まった!
「やっぱり大学院に挑戦しよう。もっと症状が酷くなって入退院を繰り返すことになったら、それこそ大学院になんて行けない。そうなる前に挑戦しよう」そう決めて、家族には内緒で書類を提出した。
書類選考は無事通過。面接の日が近づいてきていた。その頃ちょうど、風邪を拗らせ会社を休んでいた。無事回復し、明日が面接。
面接の前日「明日出かける用事があるから」と母に伝えた。
母からは「病み上がりに何言ってんだ、どこに行くんだ」と聞かれ、最初は誤魔化していたけれど、1時間問いただされ、結局諦めて面接のことを伝えた。「女に大学院なんて必要ない」「外国なんてあり得ない」「大学院なんて絶対にダメだ」「明日は絶対に行くなよ」と母からさらに2時間に渡る反対を受けた。
ただ、この件に関しては譲れない。私は面接に行くと心に決めていたので、母の話をとにかく耐えて聞いた。面接当日の朝、母はピリピリした空気を発していたけれど何か言ってくることはなかった。
よし、行こう。
母の反対を超えて、自分の意思で行動したのはこの日が人生で初めてだったと思う。
面接は無事終わり、手応えがあった。嬉しい、大学院に行けるかも♡そんな気持ちで家に帰ると、母からの大反対の説得が待っていた。
「大学院に行くということは、どういうことか分かっているのか?」「これまで育ててやったんだ。親不幸者」「女がなんで大学院に行くんだ」「潰瘍性大腸炎はどうするつもりなんだ」「自分が病気を患っているという自覚はあるのか」「大学院に行ってきて、その後は何をするつもりなんだ」「じいさんとばあさんを心配させるつもりか」
妹も父も母側について、週末になると母は親戚まで家に呼び、私を説得させた。誰も私の味方はいない。留学(大学院)に行くことは譲らないと決めていたけれど、これだけ反対されるととても悲しい気持ちになった。
「なぜ私の選択を尊重してくれないのだろうか?」
「家族ってこういう時に応援して協力してくれる存在じゃないの?」
ただ、こんな自分の想いを口にしたところで、”そう思うことがおかしい”と返されるのがオチ。黙って耐えた。
無事、大学院から合格通知が届く。合格したことは嬉しかったけれど、家族には合格したことを話さなかった。
本当は家族に共有したかったな・・・本当に悲しい。だけど悲しんでる暇はなく、留学準備を進めた。
私が準備を進めているのを見て、家族からの大反対は続いた。だけど、私の意思が変わらないことを悟ったのか、最終的には
- 潰瘍性大腸炎の薬を飲むこと
- 卒業後は必ず帰ってくること
- 帰国前に次の就職先を決めること
という条件付きで「大学院に行くことを許してやる」と、3ヵ月に渡る大反対の末、母から許可が出た。
「私の人生なのになんで大学院に行くことを母に許してもらわないといけないのだろう?」と納得がいかない気持ちを飲み込んで「分かった」と答えた。
24歳の夏、無事韓国へ。
大学院生時代
自分で選択できる生活
大学院はソウルにあるヨンセ大学(日本で言うと慶應義塾大学のようなイメージ)。学部はマーケティングを専攻。
授業では、英語の論文を読んで、韓国語で発表。英語ー日本語ー韓国語を行き来しないといけず、課題が人の倍の時間かかった。なんとか授業についていこうと、とにかく必死で毎日課題をこなした。
大変だけど楽しい日々。さらに日常生活で楽しかったのは、毎日自分の選択で選べること。
朝何時に起きて、何を食べるか?何を着て学校にいくか?授業はどの科目を履修するか?学校以外ではどんな活動をするか?髪型はどうするか?どこで服を買うか?等々、新しい環境で1つ1つ、一から自分で決めていくことがこんなに嬉しいことなのか。
日本では、服や髪型など、外見に関することは母の意見に従っていた。「反抗しても無駄だ」という気持ちと「穏便に済ませたい」という気持ちから、母の前ではなるべく”母が望む娘”でいようと努めていたんだなと気づく瞬間がたくさん。
「自ら動く」という生まれ持った素質が、この時にやっと活かされている感じがした。
そうやって自分の選択ができる嬉しさと同時に感じていたのが、罪悪感だった。
親の反対を押し切り、韓国に来て自分だけ自由に過ごしている。母への罪悪感は拭えなかった。だけど、「私は私の人生を生きて良いんだ」「私にだって大学院に通う権利はあるんだ」そう思う自分を信じて罪悪感と闘っていた。
ライフコーチングとの出会いと大学院卒業後の私
生きづらさの原因を知る
大学院卒業目前に、「これからどうしよう?」と問いが湧いた。ふとセブ島留学で出会った知人のライフコーチのことを思い出して話を聞いてみることにした。
自分の人生を生きるという面において、進みたい道かもと思い、コーチングを学んでみようと決める。
コーチングを学ぶと、自分は小さい頃から常に「母が私にどうしてほしいと思っているのか?」を考えて、母の幸せを叶えるために生きてきたんだな~と改めて言葉になった。
これまで生きづらかったのは自分の人生を生きていなかったからなんだと自分への悔しい気持ちも感じた。「これからは自分の人生を生きていきたい」という想いが強くなって、卒業前に母へ手紙を書いてみることに。
母に対して「今までどう感じていたか?」「本当はどうしてほしかったか?」や今後はお金の管理や病気の薬を飲む飲まないの決断、恋愛、仕事など、人生全般において自分で決断していきたいと綴った。
ずっと母の顔色を伺いながら生きてきたけれど、この時初めて自分の気持ちを正直に母にぶつけることができたと思う。
手紙の返事が来た。内容は、端的に言うと自分を正当化する理由と「お前も母親になったらわかるはずだ」というものだった。
あぁ、母は責められたように受け取ったんだなと思ったし、一番伝えたいと思っていた”これから私は自分の人生を生きたい”という想いは伝わらなかったんだなと少し寂しかった。
選択をしているのは自分
大学院卒業後、日本に完全帰国。理由はその時点では韓国で働きたい気持ちにはならなかったからだ。2年ぶりに実家で暮らすことにした。この時は無意識だったけれど、あれだけ母との関係に悩んでいたのに、実家以外の選択肢を思い浮かべることはなかったのだ。
今思うと、自分の人生を生きると決めつつも、まだまだ無意識は母を喜ばせることを考えていたんだなー。
2年ぶりの母は、手紙を書いたおかげか、留学前よりは口出しすることが少なくなったように感じた。ただ、些細なことでも意見が合わないと、二言目には「気に入らないなら出ていけ」「自分一人の力で生きてみろ」「縁を切る」と言われるのは相変わらず続いていた。
そんな環境の中でも、コーチングトレーニングやマイコーチとのセッションがあったのは本当によかったと思う。それらを通して自分と向き合い続ける中で、母の干渉や強要を最終的に受け入れているのは自分だし、実家に住むことを選んでいるのも私自身なんだと改めて気づいた。
無意識レベルの干渉からも自分を解放して、自分の人生を生きてやる!と、より強く決めた。
韓国への移住
本当の親孝行とは?
コーチングを受けて、無意識レベルの干渉からも自分を解放しようと決めた時、気づいたのが、“親の言うことを聞いて叶えること=親孝行”だという思い込みだった。
だけどよく考えると、親の望むことを全て叶えられるわけなんてないし、それでは自分の人生は生きられるはずもない。自分の選択に100%責任を持ち、自分の人生を生きようと決めたからこそ、
「親孝行とは、娘である私が幸せに生きること」 「私の幸せが親の幸せにも繋がる」という新しい価値観の世界を採用できたと思う。
その後、高校時代から夢だった海外移住を決意。偶然見つけた日本語講師の求人に応募した。1ヶ月くらいでとんとん拍子に韓国で働くことが決まった。
家族からはまた大反対されるだろうなと思い、1ヶ月かけてコソコソと少しずつ準備を進めた。何でコソコソ準備してるんだろう、、、と悲しく思うこともあったけれど、応援してもらえるはずはない、迷っている暇もないと必死だった。
出発日になり、母にすぐに見つからないように、自分の部屋の机の引き出しに、置き手紙を入れて実家を後にした。
念願の渡韓
「私が私の幸せのために生きて、毎日幸せに生きている姿を見せることが親孝行。私はこれから韓国で一から生活を始めて、まずは自分が幸せに生きるんだ」と自分に何度も言い聞かせた。
勤務先の近くには友人も知り合いもいない。
- 仕事に馴染めるか?
- 何かあっても頼る先はないけど大丈夫か?
- 一人で本当にやっていけるだろうか?
不安はあったけれど、なんとしてでも私は新天地韓国で、絶対幸せになってやると思った。
韓国への移住後
自分の人生を生きている感覚
留学経験があったおかげで、何とか韓国の生活には馴染むことができた。助けがない環境の中で、自分で全てをやることは大変だったけれど、一つ一ついろんなことに取り組んで、自分でできるようになることが楽しかった。
小さい頃の自分が戻ってきた感じで、自分の人生を生きている感覚が日に日に増していった。
最初の就職先は、労働環境がブラックな部分もあり、給料を搾取されたこともあった。韓国の労働省に陳情をして、環境を変えてもらえるようにお願いした。これまでの自分なら「自分が我慢しよう」と考えていたと思うので大きな進歩。自分の意見を主張した。
結局、最初の就職先の環境は変わらなかったので転職したものの、これまでとは違って自分の納得のいく選択をできたことに自信がついた。
その後、自分にあった環境を選ぶために更に転職をし、最終的には大学の日本語講師とオンライン個人レッスンを通して活動。
現在、韓国に住み始めて8年目となった。あっという間の8年。自分でも8年も韓国にいるなんて思ってもみなかった。自分で自分の人生を切り開いてきたこの8年間の自分を誇らしく思うし、褒めてあげたい笑 よくやった!
母との関係
この8年間、母にはメッセージやたまに帰国した際に自分の考えを小出しに伝えてきた。母からは「もう好きなように生きなさい」と言われるまでになった。私自身も、母との根本的な価値観の違いを受け入れられるようになったと思う。
サイナスリズムコーチとして
現在は、これまでの経験を活かして過去の自分のように、自分の幸せのために生きたいけれど、なかなかその一歩が踏み出せずに悩んでいる方が「自分の人生を一歩踏み出す」サポートをしている。
誰しもが、自分の見出している世界(思い込み、設定)に気づくだけで自分の望む人生を作っていける。クライアントのその気づきをサポートするコーチでありたいと思っている。
最後まで読んでいただき本当にありがとうございます^^
私の人生に共感したり、似ているなーとか、話しを聞いてもらいたいと思った方がいればオリエンテーションでお待ちしていますね!気づくだけで人生は望む方に変えていけます♡