自己紹介

森山 史香

”自分の意見に自信が持てない”と悩む方専属ライフコーチ

国際コーチング連盟
アソシエイト認定コーチ(ACC)

1982年福岡生まれ。長女。三交代勤務の父、看護師の母のもと育つ。母の出勤時、弟が号泣し、母を追いかける姿を見て「私がしっかりしなきゃ」と気持ちを言わないようになる。 母の勧めで、高校は吹奏楽部、進路は放射線技師を選択。放射線技師国家資格を取得するが、目指す技師像を語れず、40人中 1人だけ就活失敗。ニート期間を経て就職するも「意見を言わないお前には任せられない」と仕事をもらえず。 25歳「いかず後家になるな」と父の意見で婚活開始。初めて彼ができるが、相手に意見を合わせすぎ、「重い」と半年で振られる。その後10年彼なしで”自分は価値がない”と絶望する中、ライフコーチングに出会う。

これまで”他人の意見を正解”とし、”自分は間違い”と自己否定し続けていたことに気づき「私はどうしたい?」と自分に問い自分基準で人生の選択をするようになり、交際1年でスピード結婚。2児のママとなる。「ふみちゃんがやりたいことを自由にしていいよ」と夫のサポートで2023年ライフコーチとして独立。新築マイホーム購入。

クライアントは1年で結婚、年収/キャリアアップを同時に叶える転職、理想的な家へ引っ越し、念願の1人海外旅などを実現している。

幼少期

1982年福岡県大川市生まれ。工場勤務の父、看護師の母、弟、祖母の5人家族の家庭で育つ。

幼いころは服がずぶぬれになるほど泣き虫だったらしい。そんな私を見て母は「毎日ちゃんと幼稚園に通えるだろうか」と心配していたそうだ。

私が5歳の時、母は看護師として復職した。泣きながら母を追いかけようとする弟を、必死で引き留めながら「私はお姉ちゃんだから泣いちゃいけない。」と強く自分に言い聞かせた記憶がある。それからは泣きたくても”私はお姉ちゃんだから泣いちゃいけない、しっかりしなきゃ!”と泣かないように頑張っていた。

小学生時代

小学生になった私は”しっかりもののお姉ちゃん”でいるようになった。弟に対してはいつも劣等感を持っていた。弟は常に周りに人が集まる人気者で、母にとっても自慢の息子だった。何もしなくても可愛がってもらえて、受け入れてもらえる弟が羨ましかった。私はいい子にしていないと見てくれないのに、なんで弟は何もしなくても見てもらえるんだろう。いつも弟に対してひがむ気持ちを持っていた。

ただ、弟の面倒を見たり、祖母のお世話をしていると「お姉ちゃんがいてくれて助かる」と母が褒めてくれた。”しっかりもののお姉ちゃん”でいれば自分を見てくれる、と思うようになった。

そして弟が9歳の時に野球を始め、応援や付き添いに両親が忙しくしていることが寂しかったが、いい子でいなければいけないと思っていたので、それを言えずにいた。

中学生

中学ではバレー部に入部した。理由は母が学生時代にバレー部だったから。運動は得意ではないので、もちろんレギュラーにはなれず補欠。サーブだけはいいものがあったらしく、1度だけピンチサーバーとして試合に出ることができた。練習はとてもきつく、夏休みの練習で熱中症になって倒れたこともあった。それでも部活を辞めようと思わなかった。今思えば部活を辞める自分、というのを許さなかったんだと思う。

中学時代の成績は常にトップクラスだった。特に塾にも行かず、自分で勉強してきた。高校受験では地元の進学校が第一希望で、担任の先生からも推薦で合格できると言われていた。でも母が高校は一般受験した方がいいと言ったので、推薦は受けなかった。そんな中、滑り止めだった私立の特進コースに落ちてしまった。余裕で受かると思っていたので、大きなショックを受けた。私立の普通科に通う自分、公立に落ちる自分、そんな自分はダメだ、ちゃんとした自分でいないと見てもらえないと思い、そこから猛勉強し無事第一希望の進学校に合格した。

高校生

高校では吹奏楽部に入部した。元々茶道部に入ろうと思っていたが、入学式での演奏に感動して吹奏楽部に決めた。でも本当は吹奏楽部の演奏を聴いた母が「吹奏楽いいんじゃない?」と言ったことが決め手だった。自分の意思より母の意見重視だった。

吹奏楽部に入部し、本当はサックスをしたかったけど「自分の希望しない楽器になったらどうしますか?」と聞かれたときに自分の意見を言えず「どの楽器でも頑張ります」と答えたら、全く希望していないチューバの担当になった。担当に決まった瞬間辞めたいと思ったが、結局そのまま続けることにした。きっと「入部してすぐやめた自分」というレッテルが嫌で、いい子でいるためにそのまま続けたと、今となってはそう思う。(中学でバレー部を辞めなかったのも同じ理由だ)チューバはあまり好きじゃなかったけど、吹奏楽部で出会った友人がいてくれたおかげで3年間部活を続けることができた。悲願の県大会にも出場できた。彼女たちとは、大切な仲間として今でも繋がっている。

成績は常に上位10%に入っていた。50位以内に入ると掲示板に名前が貼りだされていて、自分の名前がそこに載ることがうれしかった。勉強できる自分、というのが何もない自分を隠してくれていたと思う。

短大

九州大学医療技術短期大学部診療放射線学科に推薦で合格した。この時も母が「大学受験は大変だから推薦受けれるなら受けなさい」と言ったので、推薦受験した。私の中で母の言うことが常に正解だった。

幼い頃より母が「女性でも手に職を持ってた方がいい」と常々言っていたので、自分は医療の道に進むものだと思っていた。でもどこかで母に反抗したかったのか、母と同じ看護師は嫌だと思い、放射線技師を選んだ。中学3年生で初めてMRIを受けたことがきっかけだった。この時に放射線技師という仕事を知り、白衣を着ている姿がカッコよく見えた。看護師とは違うけど同じ医療の仕事、自分が見つけた、というところが選んだ大きな理由だった。

1年生は自宅から2時間かけて通ったが2年生から1人暮らしを始めた。飲食店でバイトも始めた。バイト代はほとんど洋服に消えた。新しい服を着ると少し自信がもてるような気がした。

短大では九州各県の進学校から学生が集まっていたので、みんな優秀だった。短大での成績はあまり良くなく、誰もが合格するという2つの試験に落ちたり、就職も全滅で最後まで決まらなかった。

就職

国家試験には合格した。ただ、卒業後も就職が決まらずニート。総合病院で勉強するという名目で働かせてもらった。つまり無給。その後、別の病院のバイトを経て、7月に正職員としてようやく就職することができた。

就職後は毎日失敗の連続だった。毎日インシデント(ひやっとするような事故の手前)を起こし、更には重大なアクシデントも起こしてしまい、上司と一緒に外科部長・院長・理事長まで謝罪に行ったこともあった。毎日「また失敗するかもしれない」と恐怖に襲われ仕事に行くのが心から嫌だった。

ただ、ようやく決まった正職員の仕事を手放せない。お守りを買って持ち歩き、何かにすがる気持ちで過ごしていた。先に入職していた同期は、多くの仕事を担当するようになっていた。それに比べて自分は基本的なことさえ失敗し、何もできない。自分が悔しかった。「この新人は大丈夫なのか?」「こんなに出来ない新人、今までいなかった」と周りは言っていたそうで、のちに上司から「3か月の試用期間後、正職員にするのを迷ったくらいだ」と教えてもらった。

3年目でようやく落ち着き、一通りなんでも担当出来るまでに成長した。

新人時代は、とても辛い時期だった。今まで誰かの期待に応えてきて、ちゃんと生きてきたつもりだった。でもこのときは、誰かの期待に応えることができなくて、何もうまくいかない、失敗ばかり。”ちゃんとできない”自分が情けなくて、自分をいつも責めていた。

就職して10年目、周りが一気に退職、産休となり、女性技師が4年目以下の若手、そのうちの半数は新人という状況になった。今までは先輩や同期に相談できたことが、誰にも頼れなくなった。

さらにさらに、自分が女性技師の中で一番上となり、責任も増した。(働いている病院は男女別の健診センターがあり、女性フロアのことは女性技師に一任されていたので自分がマネジメントしなければなりませんでした。)

後輩の教育も早急にしなければならず、ストレスが重なり帯状疱疹になった。ちゃんと教育しなきゃ、先輩技師としてちゃんとしなきゃ、と”ちゃんと”に縛られて苦しい日々を送っていた。

恋愛

私は、友達から過去の恋愛の話など聞かれるのがとても苦手だった。なぜかというと、恋愛経験がないことがコンプレックスで恥ずかしいと思っていたからだ。短大時代も就職してからも彼氏は出来ないまま。「なんで私はみんなみたいにちゃんと恋愛出来ないんだろう」他の人と同じように恋愛できない自分はダメな人間だ、と思うようになっていった。

ようやく彼ができたが、今度は”ちゃんと”いい彼女でいなきゃ、と本当の自分を出すことができなかった。それは相手に嫌われたくないという気持ちが強く、振られてまた恋愛できない自分に戻りたくなかったからだ。いつも自分の意見を言えず、いい彼女”風”を繕っていたから、一緒にいても楽しくないし、心から笑いあうこともできていなかったと思う。結果半年で振られた。今思うと本当につまらない人間だっただろうから、彼には申し訳ない気持ちでいっぱい。

25歳くらいのときに、父がいきなり「行かず後家にはなるな」と言ってきた。父としては心配しての言葉だったのだろうけど、焦りが生まれた。 これをきっかけに婚活を始めた。といっても合コンをするようになっただけで、本格的に婚活パーティーやアプリを始めたわけではなった。まだ25歳。正直、そこまでやるほど追い込まれていなかった。むしろ、それに頼ったら終わりだ、とさえ思っていた。私の中でアプリなどでの出会いは、ちゃんとした出会いじゃなかったからだ。もし彼ができてもアプリで出会ったということを周りに知られたくないと思っていた。

合コンは全くうまくいかなかった。ここでもよく見せようと、ちゃんとした女性を演じていたので自分らしさを全く出せていなかった。にも関わらず、カッコよくない、話がつまらない、仕事がいけてない・・・など相手のダメなところばかり見つけては、相手に対して冷たい対応をしていた。

ライフコーチングとの出会い

うだつの上がらない人生が許せなくて、30歳を機に”何か”を変えようと一人暮らしを始めた。一人暮らしをすれば変わるんじゃないかと期待していたが、当然それだけでは何も変わらなかった。

ただ毎日、職場に行って仕事して帰るだけ。実家にいた時と何も変わらない日常だった。自分の将来に対してなんとかしたいと少しずつ考えるようになった。今まで避けていた婚活パーティーにも参加するようになった。最後の砦だと思っていた婚活パーティー、誰からも選ばれることなく終わってしまい、悔しくて惨めな気持ちになって帰宅したのを覚えている。

そんな時期に、読んでいたブログでサイナスリズム代表の石原が紹介されていて、ライフコーチングに出会った。石原が朝会を定期的に開催していたので、それに参加したことがコーチングを受けるきっかけだった。

コーチングを受けていくと「しっかり者のお姉ちゃんの私」「勉強ができる私」「仕事ができる私」など周りが求める自分=”ちゃんとした自分”にならないと愛されないと思っていたことに気づいた。

だから、これまでの人生では母や友人、世間、みんなが思うことなどの、”他人の意見”を正しいと思ってきたし、他人に肯定してもらわないと、”ちゃんとしていない自分”を感じ、不安でたまらなかった。

”ちゃんとした自分”でいられるように人に合わせることに必死だったのだ。

だけど、コーチングセッションを受けてコーチに「史さんは何を感じてる?」「じゃ、史さんはどうしたい?」と聞かれてそのとき言葉にできることをちょっとだけ言葉にしていくようにした。

そうすると不思議と、自分はどうしたいのか?と考えていくことができて、少しずつ自分軸で考えれらるようになっていった。

正直に話すとセッションを受け始めて最初は「私が感じてることって何?」「どうしたいって、どうしたらいいの?何が正解?」と戸惑ったこともあった。

コーチにも「これでいいですか?」「大丈夫ですか?」と聞いたけど、コーチからは「史さんの人生だからそこの答えは私にはないんだよね」と返ってきて最後の決断をコーチは決めてくれなかった。

だからこそ、自分の答えを信じて、やってみる経験を積むことができたと思う。

夫との出会い

ライフコーチングを受け始めるのと同じ時期に、夫と出会った。この時期は今までのプライドを捨てて、とにかく必死に婚活と向き合った。毎週末婚活パーティーに参加したり、避けていたアプリにも登録して、多くの男性と会うようにしていた。

夫とはアプリで出会った。コーチングを受ける前は、アプリで出会うことはちゃんとした出会いじゃないと思っていたが、この時は「アプリは出会いの手段の一つ」と思えるようになっていたので、抵抗はなかった。

夫の第一印象は良い人だな、くらいの普通の印象。何度か会っていると、夫といるときの自分がとても自然体でいられることに気付いた。自分が自分らしくいて心地いい瞬間を感じた。このとき初めて自分自身の感覚(=感じる)に気付くことができたんじゃなかろうか。

色々と頭で考えたときは決断できなかったが、この感覚に気付いた瞬間、夫と付き合うことを決めた。

お付き合い後もコーチングを受けていたので、怒りが湧いた時も、相手に怒りの感情を伝えるのではなく、心の奥の本当の気持ちを伝えることができるようになっていた。夫はありのままの私を受け入れてくれた。

コーチングと夫のおかげで、ありのままの自分でも価値があると思うことができるようになっていった。結婚できない私なんてダメな人間なんだ、と自分の中で大きなコンプレックスになっていたものが溶けて、自分を認められるようになった。結婚しても結婚しなくても私の価値は変わらない、そう思えていた。

1年間、お付き合いをして私たちは結婚した。

ライフコーチワールドに通う

コーチングを受けて、あんなに恋愛に悩んでいたのに、あっという間に結婚することができた。過去の自分と同じように恋愛や婚活がうまくいかず悩んでいる人がいたら、どうしてもサポートをしたい。そう思い、コーチングを学ぶことを決心した。その時妊娠6か月だったため、出産後に受講することにした。出産後、ライフコーチワールドの福岡9期生として念願の受講ができ、コーチとして歩み始めた。

サイナスリズムコーチとして

第2子出産後、代表の石原と共にサイナスリズムのコーチとして活動を開始。過去の自分のように、他人の期待に応えようと”ちゃんとしなければ”に苦しむ人をサポートしている。

クライアントは、職場で自分の意見を言えるようになったり、10数年ぶりに彼氏ができたり、結婚、夫婦関係改善を叶えている。